ミノとハラミ

もろもろ忘れがちなオタクがのちのち己を振り返るために悪あがきでつけている備忘録

国民的アイドルのファンであるということについて

いわゆる飯島班であるところのキスマイ担だが、ここ数日、キスマイの行く末に思いを馳せることはなかった。あくまでキスマイ担の立場から、先輩であるSMAPの行く末を案じていた。
今日になって初めて、担当グループのことをうっすら考えた。ただし、現在どうなってるとか数ヶ月後にどうなるとかいう具体的な心配ではない。もちろん、所属事務所への不信感というのは別途あって、さっきスマスマの生放送を見てからというもの募りに募っているのだが、それもひとまず置いておく。置いておかないと暗澹たる気持ちになるからというのもある。

「国民的アイドルになりたい」と、彼らは言う。
同時に、「『国民的』ってどういうことだろう?」とも口にする。明確な定義はできないけれど、それでもなりたい、目指したいと話す。その視線の先にあるのは、間違いなくSMAPや嵐の背中だろう。
あのさ、国民的っていうのは、お家騒動がおそらくは不倫スクープの対抗馬として満を持してすっぱ抜かれ、テレビもラジオも新聞もネットメディアも連日てんやわんやで、いろんな専門家がそれぞれの立場からマイクの前でもっともらしく語り、経済効果がどうだとかいうニュースになって、思わぬところから温かな激励がバンバン飛び出したりもしつつ、巷ではスタバの新作か何かの話のように「共通の」「当たり障りのない」「流行りの」時事ネタとして数多の人々の口に上り、たとえば彼らのファンを自認している人たちは、職場や学校で交わされるそれらの会話に首を突っ込みたくても突っ込めなかったり、逆に突っ込みたくもないのに解説を求められたりして、そんなふうに日本中がバタバタして、バタバタさせたことをアイドル本人がひとまずテレビの生放送で謝らなければならない。
国民的ってこういうことだ。
彼らは本当に国民的アイドルになりたいのか? わたしたちは国民的アイドルのファンをやりたいのか?
その覚悟が、わたしにあるんだろうか。
10年くらい前、ジャニーズファンでもなんでもなかったわたしは、SMAPのことを「国民的」とかなんとか形容して、あるスマオタの不興を買ったことがある。彼らはポップアイコンなんかじゃない、血の通った男の子たちなんだと。汗水たらす彼らをずっと見てきたのだと。
そういう「わたしの見てきた、わたしの知っている彼ら」と、「日本国民の見ている彼ら」の間に生じる乖離を、なんとかうまいこと調整しながら応援していくことが求められるのだろう、国民的アイドルのファンってやつはきっと。身も蓋もないことを言えばどちらも偶像だ。それでも、他人事じゃなく我が事として見守ってきたファンにはそれなりの自負がある。
「芸能人を応援する」「芸能人のファンとして生活する」ということの楽しさを教えてくれたのは今の担当だった。ジャニーズ事務所のアイドルだった。彼と仲間たちが、世間にもっともっと認知され愛されることを望んでいるはずだった。
今、わたしはアイドルのファンをやっていくことが少し怖い。