ミノとハラミ

もろもろ忘れがちなオタクがのちのち己を振り返るために悪あがきでつけている備忘録

Re: Re:

君はきっと僕より僕のことを知っていて、僕より僕のことを見ていると思う。常に何をしているか何を考えているか、僕のことを想ってくれている。それは無償の愛でしかない。今の僕にそれを他の人にできるかって言われたらできないと思う。凄いな。

ファンの「愛」を、時には気味悪く疎ましく思ったり、重荷に感じたり、あるいは驕ってしまうことも、慣れきって鈍感になってしまうこともあるだろう。それでも手紙の中では、そういったファンのありかたを大げさに歓迎するでも、もちろん真っ向から拒絶するでもなく、ただ「凄い」と彼は評した。無償の愛に包まれている、とても自分にはできないと。それは同時に、「どれだけ愛を注いでもらっても、俺はあなたに何も返せませんよ」というエクスキューズとも、「俺にはあなたが注いでくれるような大きな愛を捧げる特別な相手なんていませんよ」というアピールとも受け取れた。

比較的最近のできごとでもうひとつ印象に残っているのは、15年の6月だったかな、『世界の日本人妻は見た!』で、スペインの国民的スターとその熱心なファンという夫婦が取り上げられた時のこと。「北山くんはスターなわけですよ、部屋にポスター貼ってる熱心なファンの女の子がいっぱいいるよ、そういう人と恋に落ちて結婚したとするよ?」と爆笑問題の二人に水を向けられて、安易に笑い飛ばすでも、難しい顔をしてみせるでもなく、努めてニュートラルな表情を保ってうんうんと頷き返す様子に、彼なりの誠実さを見た気がした。直後その同じ顔で、「正直あそこまでしていただけるなら(=尽くしてもらえるなら)アリ」ってコメントするんだけど(笑)。でも、「ファンと結婚なんてないわ~と思ってたけどぉ、あそこまでしてくれるんなら……アリかな♪」とかなんとか、語彙と口調と表情の選択如何でいくらでもライトな笑いに持っていけたのに*1、案外そういうところ真面目で不器用だよなあ……と思ったのだった。

裏の裏まで晒しはしないが、不要な嘘もつかない。引き留めることはないが、ひどく突き放すこともない。あけすけに見えて慎重、それでいて、ある程度は信頼を寄せてくれている……と思う。ファンに信頼を示すということは、すなわち牽制でもあるのだけれど。
わたしは北山くんの、キスマイの各メンバーと均等な距離を保とうとする姿勢が好きで*2、美徳として好ましく思っているのと同時に、なんとなく憐憫のようなものも、そしてシンパシーもまじっているんだけど、ひょっとするとファンに対する姿勢も少し似ているのかもしれない。できるだけみんなと平等に、心地よい距離を測ろうとするところ。

俺らには俺らの道があって、ファンのみんなにもみんなの道がある。だけど、それを繋いでくれるのが音楽だったり、ライブだったりするのかなって思いますね。

Songs 2012年12月号

そんな距離感で、31歳の北山くんとも付き合っていきたい所存です。お誕生日おめでとうございます。あなたにとっても、わたしにとっても実り多き年になりますように。


個人の活動で目新しいものはなく*3、その分グループの活動にリソースが割けているんだろうな、という2016年だなあ今のところ。その甲斐あってかアルバムとツアーが素晴らしかったので、キスマイ担としては北山P様様ですが、腐っても北山担、新しい仕事は常に待っている。

*1:話のオチは出川さんが引き取ってくれました

*2:キスマイのいいところは「距離感」だと、沖縄で言ってたね

*3:むしろラジオ番組の終了に相当がっくりきた……

安井くんとLove-tuneのこと、あるいは担当を降りなかった話

ジャニオタを自覚して数年、ド新規のわたしはまだ担降りというものを経験したことがない。さらに、その記念すべきファースト自担である北山くんのこともキスマイのことも、まるで傾斜の緩い坂をゆっくり転がり落ちるように好きになったため、いわゆる「○○出」という明確なきっかけがない。
ジャニオタが当然のように使う「担当」という用語、しかしその定義は人それぞれだと思う。わたしもかつて自分なりに悟った時期があって、いまだにうまく言語化できないが、平たく言えば「他人事じゃない」という感覚がわたしにとってはそれだ。わたしは北山くんとキスマイにまつわることを客観視できない。それらは取りも直さず「自分のこと」になる。自身が彼や彼らと同化しているわけではなく、なんと言えばいいのか、きっとスポーツチームを応援している人は想像しやすいと思うのだが、ひいきの選手やチームの動向がそのまま自分のメンタルにダイレクトに響く、浮き沈みを日々リアルタイムに共有しながら生活しているあの感覚だ。だから、わたしが「担降り」をするのは今の担当より好きなタレントを見つけた時ではなくて、自分に引き寄せて考えることのできる対象が代わった時なのだと思っている。

ジャニーズ銀座、5/6のLove-tune初日を観た。
決して降りるつもりで行ったわけではない。結果やっぱり降りなかった。オチはない。みんなの好きな担降りブログじゃなくて申し訳ない。

以下は開演直前のツイート。


組み始めた頃から、動向の気になるチームだった。単純に好きなメンバーが集まっているせいでもあるし、元々ロックバンドを好きなせいでもあるが、一番の要因は、フロントマンを務める安井くんにある。
ジャニーズを好きになって間もない頃、初めて個人的な思い入れを抱いたJr.が安井くんだったと思う。以来、たびたび彼が「グループを組んだことがない、組みたい」と口にするのを見てきた。わたし自身、グループ単位で応援したいグループ厨のオタクでもあったので、「安井くんがグループを組み、そのグループに名前がつくこと」は、ごく緩いファンであるわたしにとってもそれなりにインパクトのあるできごとだった。

安井くんは、この日が自身のキャリアにおいて節目の一日となることを隠さなかった。ステージの上で、「初めてのグループ」「初めてのグッズ」「名前を呼んでほしい」「この日を忘れない」、そんな言葉を何度も口にした。最初から最後まで全力で汗だくだった。グループの一員、それもメンバーをまとめる立場として一歩を踏み出すにあたっての興奮、歓喜、覚悟、焦燥、野心、傲慢、渇求、不安、感謝、あらゆる感情がないまぜになって、あの小さな体からほとばしっていた。ありがたくも前方の席で観ていたわたしはそれらを肌で感じ取り、ゾクゾクしてヒリヒリして、そして、今のわたしはこの熱量を自分のこととして引き受けきれないと悟った。しんどかった。怯んだのだ。彼があまりにも必死で切実だったから。
貴重な公演の目撃者になれたことが嬉しかった。クリエの当日券にも並ぶだろうし、サマステも行くし、この夏の彼らを見届けたいと思う。一方で、あの感情の渦を我が事として引き受ける心の準備ができない限り、わたしが彼に、もっと言うとJr.に降りることはないのだろうなあ、と知らされた2時間でもあった。
開演前のツイートにもあるけれど、わたしはLove-tuneというグループに「こうなってほしい」という明確な態度を示せない。メンバーを入れ替えてほしいとか解体してほしいとか思っているわけではないが、維持してほしい、このままデビューしてほしいとも断言できない。わたしなりの「担当の定義」にもうひとつ付け加えるなら、「『こうなってほしい』という願望を託せること」かもしれない。しかし、それをJr.にぶつけるのは勇気のいることだ。
本編ラストの曲、Heavenly Psychoを安井くんは「証」と呼び、今の自分たちと重ね合わせるように大切に歌っていた。「今は未来に向かう道の途中だ」。安井くんをはじめメンバー自身、先を見据えているというよりは、目の前にあるチャンスひとつひとつに全力で挑むことに注力しているように見えた。Jr.のグループって多分そういうものだ。過去も未来もなく、今だけがある。そして、それに伴走する胆力を、わたしは持ち合わせていなかった。

明日をも知れない日々に必死なのはデビュー組だって同じで、そもそもキスマイから降りたい願望も今のところないのだが、いつかそんな理屈を飛び越えて何かに落っこちる瞬間が訪れるとしたら、それは決して不幸なことではないのだろう。「○○出の××担」みたいなものに憧れがあるのかもしれない。ともあれ、少なくとも今じゃない、ということがわかったので、予定通り、キスマイのツアーの当落を祈るように待っている。

KI-WORLD覚え書き

初回盤特典のKI-WORLD(北山くんロングインタビュー)を見て。
たいしたことは書いてません。ツイッターもログとってあるけど、「自担がグループのありかたに言及した時の感想」は特に、今年はなるべくこっちに残しておこうと決めた。振り返りたくなる時が多分くるから。

続きを読む