ミノとハラミ

もろもろ忘れがちなオタクがのちのち己を振り返るために悪あがきでつけている備忘録

安井くんとLove-tuneのこと、あるいは担当を降りなかった話

ジャニオタを自覚して数年、ド新規のわたしはまだ担降りというものを経験したことがない。さらに、その記念すべきファースト自担である北山くんのこともキスマイのことも、まるで傾斜の緩い坂をゆっくり転がり落ちるように好きになったため、いわゆる「○○出」という明確なきっかけがない。
ジャニオタが当然のように使う「担当」という用語、しかしその定義は人それぞれだと思う。わたしもかつて自分なりに悟った時期があって、いまだにうまく言語化できないが、平たく言えば「他人事じゃない」という感覚がわたしにとってはそれだ。わたしは北山くんとキスマイにまつわることを客観視できない。それらは取りも直さず「自分のこと」になる。自身が彼や彼らと同化しているわけではなく、なんと言えばいいのか、きっとスポーツチームを応援している人は想像しやすいと思うのだが、ひいきの選手やチームの動向がそのまま自分のメンタルにダイレクトに響く、浮き沈みを日々リアルタイムに共有しながら生活しているあの感覚だ。だから、わたしが「担降り」をするのは今の担当より好きなタレントを見つけた時ではなくて、自分に引き寄せて考えることのできる対象が代わった時なのだと思っている。

ジャニーズ銀座、5/6のLove-tune初日を観た。
決して降りるつもりで行ったわけではない。結果やっぱり降りなかった。オチはない。みんなの好きな担降りブログじゃなくて申し訳ない。

以下は開演直前のツイート。


組み始めた頃から、動向の気になるチームだった。単純に好きなメンバーが集まっているせいでもあるし、元々ロックバンドを好きなせいでもあるが、一番の要因は、フロントマンを務める安井くんにある。
ジャニーズを好きになって間もない頃、初めて個人的な思い入れを抱いたJr.が安井くんだったと思う。以来、たびたび彼が「グループを組んだことがない、組みたい」と口にするのを見てきた。わたし自身、グループ単位で応援したいグループ厨のオタクでもあったので、「安井くんがグループを組み、そのグループに名前がつくこと」は、ごく緩いファンであるわたしにとってもそれなりにインパクトのあるできごとだった。

安井くんは、この日が自身のキャリアにおいて節目の一日となることを隠さなかった。ステージの上で、「初めてのグループ」「初めてのグッズ」「名前を呼んでほしい」「この日を忘れない」、そんな言葉を何度も口にした。最初から最後まで全力で汗だくだった。グループの一員、それもメンバーをまとめる立場として一歩を踏み出すにあたっての興奮、歓喜、覚悟、焦燥、野心、傲慢、渇求、不安、感謝、あらゆる感情がないまぜになって、あの小さな体からほとばしっていた。ありがたくも前方の席で観ていたわたしはそれらを肌で感じ取り、ゾクゾクしてヒリヒリして、そして、今のわたしはこの熱量を自分のこととして引き受けきれないと悟った。しんどかった。怯んだのだ。彼があまりにも必死で切実だったから。
貴重な公演の目撃者になれたことが嬉しかった。クリエの当日券にも並ぶだろうし、サマステも行くし、この夏の彼らを見届けたいと思う。一方で、あの感情の渦を我が事として引き受ける心の準備ができない限り、わたしが彼に、もっと言うとJr.に降りることはないのだろうなあ、と知らされた2時間でもあった。
開演前のツイートにもあるけれど、わたしはLove-tuneというグループに「こうなってほしい」という明確な態度を示せない。メンバーを入れ替えてほしいとか解体してほしいとか思っているわけではないが、維持してほしい、このままデビューしてほしいとも断言できない。わたしなりの「担当の定義」にもうひとつ付け加えるなら、「『こうなってほしい』という願望を託せること」かもしれない。しかし、それをJr.にぶつけるのは勇気のいることだ。
本編ラストの曲、Heavenly Psychoを安井くんは「証」と呼び、今の自分たちと重ね合わせるように大切に歌っていた。「今は未来に向かう道の途中だ」。安井くんをはじめメンバー自身、先を見据えているというよりは、目の前にあるチャンスひとつひとつに全力で挑むことに注力しているように見えた。Jr.のグループって多分そういうものだ。過去も未来もなく、今だけがある。そして、それに伴走する胆力を、わたしは持ち合わせていなかった。

明日をも知れない日々に必死なのはデビュー組だって同じで、そもそもキスマイから降りたい願望も今のところないのだが、いつかそんな理屈を飛び越えて何かに落っこちる瞬間が訪れるとしたら、それは決して不幸なことではないのだろう。「○○出の××担」みたいなものに憧れがあるのかもしれない。ともあれ、少なくとも今じゃない、ということがわかったので、予定通り、キスマイのツアーの当落を祈るように待っている。

KI-WORLD覚え書き

初回盤特典のKI-WORLD(北山くんロングインタビュー)を見て。
たいしたことは書いてません。ツイッターもログとってあるけど、「自担がグループのありかたに言及した時の感想」は特に、今年はなるべくこっちに残しておこうと決めた。振り返りたくなる時が多分くるから。

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国民的アイドルのファンであるということについて

いわゆる飯島班であるところのキスマイ担だが、ここ数日、キスマイの行く末に思いを馳せることはなかった。あくまでキスマイ担の立場から、先輩であるSMAPの行く末を案じていた。
今日になって初めて、担当グループのことをうっすら考えた。ただし、現在どうなってるとか数ヶ月後にどうなるとかいう具体的な心配ではない。もちろん、所属事務所への不信感というのは別途あって、さっきスマスマの生放送を見てからというもの募りに募っているのだが、それもひとまず置いておく。置いておかないと暗澹たる気持ちになるからというのもある。

「国民的アイドルになりたい」と、彼らは言う。
同時に、「『国民的』ってどういうことだろう?」とも口にする。明確な定義はできないけれど、それでもなりたい、目指したいと話す。その視線の先にあるのは、間違いなくSMAPや嵐の背中だろう。
あのさ、国民的っていうのは、お家騒動がおそらくは不倫スクープの対抗馬として満を持してすっぱ抜かれ、テレビもラジオも新聞もネットメディアも連日てんやわんやで、いろんな専門家がそれぞれの立場からマイクの前でもっともらしく語り、経済効果がどうだとかいうニュースになって、思わぬところから温かな激励がバンバン飛び出したりもしつつ、巷ではスタバの新作か何かの話のように「共通の」「当たり障りのない」「流行りの」時事ネタとして数多の人々の口に上り、たとえば彼らのファンを自認している人たちは、職場や学校で交わされるそれらの会話に首を突っ込みたくても突っ込めなかったり、逆に突っ込みたくもないのに解説を求められたりして、そんなふうに日本中がバタバタして、バタバタさせたことをアイドル本人がひとまずテレビの生放送で謝らなければならない。
国民的ってこういうことだ。
彼らは本当に国民的アイドルになりたいのか? わたしたちは国民的アイドルのファンをやりたいのか?
その覚悟が、わたしにあるんだろうか。
10年くらい前、ジャニーズファンでもなんでもなかったわたしは、SMAPのことを「国民的」とかなんとか形容して、あるスマオタの不興を買ったことがある。彼らはポップアイコンなんかじゃない、血の通った男の子たちなんだと。汗水たらす彼らをずっと見てきたのだと。
そういう「わたしの見てきた、わたしの知っている彼ら」と、「日本国民の見ている彼ら」の間に生じる乖離を、なんとかうまいこと調整しながら応援していくことが求められるのだろう、国民的アイドルのファンってやつはきっと。身も蓋もないことを言えばどちらも偶像だ。それでも、他人事じゃなく我が事として見守ってきたファンにはそれなりの自負がある。
「芸能人を応援する」「芸能人のファンとして生活する」ということの楽しさを教えてくれたのは今の担当だった。ジャニーズ事務所のアイドルだった。彼と仲間たちが、世間にもっともっと認知され愛されることを望んでいるはずだった。
今、わたしはアイドルのファンをやっていくことが少し怖い。